解放は誰のものか―ムーンショット計画と、身体をもつAIの手前で
「2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現する。」
日本のムーンショット型研究開発制度が掲げるこの言葉は、壮大で、少し眩しい。身体に制約のある人が仕事や表現の場へ出られる。遠くにいる専門家の技能を借りられる。年齢や病気によって失われた感覚や運動を補える。介護、災害、危険な労働、宇宙空間で、人とロボットが互いの不足を補う。
その未来を、ただ空想として退けるべきではないと思う。身体や距離が、才能や意思とは無関係に人を社会から遠ざけてきたことは事実だからだ。
けれど、この言葉を何度も読むと、別の問いも生まれる。解放とは、何からの解放なのか。そして、誰がその未来を選び、選ばない自由は誰に残るのか。
ムーンショットをめぐる本当の論点は、技術が実現するかどうかだけではない。人間の制約を取り除こうとする社会が、人間の拒否、沈黙、遅さ、弱さを、なお尊重できるのかという問いである。
一人の構想ではなく、役割の異なる人々がつくった制度
ムーンショット型研究開発制度は、誰か一人の政治家や研究者の発明ではない。2018年12月、総合科学技術・イノベーション会議(CSTI)などが、ImPACTの経験も踏まえ、「失敗も許容する」ハイリスク・ハイインパクト研究を長期目標のもとで進める制度として基本的考え方をまとめた。そこには、従来技術の延長ではない挑戦を、世界の研究者とともに進めるという明確な意志がある。 ムーンショット型研究開発制度の基本的考え方
政治的・行政的な立ち上げの局面で、科学技術政策担当大臣だった平井卓也氏は重要な位置にいた。2019年3月の第1回ビジョナリー会議でも、政府出席者名簿の先頭に平井氏の名がある。ここで平井氏を「目標の単独の発案者」とするのは不正確だが、制度を政治の側から始動させ、未来像を問う場を支えた人物として見ることはできる。 第1回ビジョナリー会議・政府出席者名簿
では、何を目標にするのか。その問いを担ったのが、2019年に置かれたビジョナリー会議だった。会議はムーンショット目標を検討するために設置され、小林喜光氏が座長を務めた。構成員には北野宏明氏、江田麻季子氏、落合陽一氏、尾崎マリサ優美氏(スプツニ子!)らが名を連ねている。科学者だけでなく、経営者、アーティスト、作家、社会構想に関わる人々を入れたことに、この制度の特徴がある。 ビジョナリー会議の設置と構成員
小林氏の役割は、研究テーマを一つずつ決めることより、科学技術を産業、社会、長期的な国家像へ接続する議論の座標を置くことだったと理解するのがよいだろう。北野氏を含む構成員もまた、目標を単独で設計した人というより、AI、生命、ロボット、表現、産業という異なる未来観を会議へ持ち込んだ人々である。最終的な目標は、外部有識者の意見を踏まえてCSTIなどが決定し、JST、NEDO、AMEDなどの研究推進法人が、PD・PMを通じて研究を進める。 制度の概要と研究推進体制
この分業を曖昧にしないことは大切だ。責任を一人に集めないためだけではない。未来をつくる力が、政治、官僚制、研究、企業、そして市民のどこに分散しているのかを見失わないためである。
「解放」の中身は、アバターと能力拡張である
目標1がいう「身体、脳、空間、時間の制約からの解放」は、不死や万能性を約束する言葉ではない。公式のターゲットは、複数のアバターやロボットの遠隔操作、身体・認知・知覚能力の拡張、ブレイン・マシン・インターフェイス(BMI)、体内に入れた機器との通信など、かなり具体的な技術群から成る。
2030年までには、遠隔就労や、想像した文字・画像を推定して障害のある人のコミュニケーションを改善するBMIの概念実証を目標としている。2050年には、望む人が身体・認知・知覚能力をトップレベルまで拡張できる技術と生活様式を普及させる、とする。つまり今は、完成した未来の入口ではなく、医療・支援・遠隔参加の可能性を、検証可能な段階目標へ下ろしていく途中にある。 ムーンショット目標1
ここにある最もよい可能性は、能力を競争のために増幅することではない。これまで環境の側にあった壁を低くすることだ。移動できない人が遠くの場に参加する。声を失った人が意思を伝える。危険な現場へ、本人の代わりにロボットが向かう。人の身体を標準値に合わせるのではなく、社会参加の方を多様な身体に合わせ直す。この方向では、技術は人間を置き換えるものではなく、人が世界へ触れるための新しい手足になりうる。
AIは、画面から身体へ出ようとしている
同じ制度の目標3は、2050年までに、AIとロボットの共進化によって、自ら学習・行動し、人と共生するロボットを実現することを掲げる。研究対象には、極限環境で働くロボット、研究者と対話しながら実験・解析・記述を行うAIロボット、人生に寄り添い一緒に成長するロボットまで含まれる。 ムーンショット目標3
これは、文章や画像を生成するAIの延長でありながら、質的には異なる段階である。画面の中のAIは、多くの場合、こちらが呼びかけたときに応答する。身体をもつAIは、部屋にいて、人の歩き方や声色を読み、危険を予測し、物に触れ、時には先回りして行動する。介護、教育、医療、家庭、職場では、その差は大きい。
しかし、「目前にアンドロイド社会が来ている」と言い切るのも正確ではない。研究計画そのものが、2030年の概念実証と2050年の社会像を区別している。人間並みの身体性、汎用的な状況理解、長期の安全性、責任の所在、低価格での保守運用を同時に満たすことは、いまなお難題である。だから現段階で必要なのは、実現を既定事実として恐れることではなく、技術が日常へ入る前に、その受け入れ方を決めることだ。
共生とは、従わせることではない
「共生」「共創」という言葉は美しい。だが、それだけでは制度にならない。
たとえば、生活を見守るAIロボットが健康の悪化を早く察知することはありうる。同時に、そのロボットは、睡眠、会話、移動、感情の変化といった、きわめて私的な生活データを集めうる。脳と機械をつなぐBMIは、失われた意思伝達を回復させる希望になりうる。同時に、脳活動に関わるデータは、これまで保護されてきた個人情報よりも深く、本人の思考、感情、選好と結びつく可能性がある。
UNESCOは、AIと結びつく神経技術について、人間の尊厳、自律、精神的プライバシーへのリスクを指摘し、2025年には神経技術の倫理に関する勧告を採択した。これは技術への反対ではない。医療や支援で生まれる大きな利益を認めた上で、脳と心に近づく技術ほど、通常の利便性とは異なる権利の保護が要る、という警告である。 UNESCOの神経技術倫理勧告
日本のAI事業者ガイドラインも、人間中心、安全性、公平性、プライバシー、透明性、アカウンタビリティを共通の指針に置いている。だが、目標1や目標3のように、AIが身体、労働、生活空間、脳に近づく領域では、それらを抽象的な原則のままにしてはいけない。 AI事業者ガイドライン(第1.0版)
私たちが守るべきなのは、AIを使う権利だけではない。使わない権利、途中で外す権利、AIの判断に異議を唱える権利、そして支援なしでも不利益を受けない権利である。
実現の前に置くべき、六つの条件
ムーンショットの是非を、「賛成」か「反対」かで決める必要はない。研究を進めるなら、次の条件を社会実装の前提にすべきだと思う。
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治療と包摂を、競争的な能力増強より先に置く。 失われた機能の補助、遠隔参加、危険作業の代替は公共性が高い。雇用や教育で「拡張している人」を標準にして、拡張を事実上の義務にしてはならない。
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脳データと生活データに、目的限定と撤回可能な同意を置く。 取得したデータを、保険、雇用評価、広告、捜査、別のAI学習へ流用できないようにする。本人が利用停止・削除・訂正を求める経路は、最初から簡単でなければならない。
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ロボットの判断に、人が介入し説明を求める道を残す。 介護、採用、医療、教育、福祉のように人生へ影響する領域では、「AIがそう判断した」で終わらせない。人間の担当者、理由の説明、異議申立て、代替手段を制度として確保する。
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停止できることを、安全性の中心に置く。 身体をもつAIには、単なる緊急停止ボタン以上の安全設計が必要になる。誰が停止できるか、停止した後に利用者が困らないか、遠隔更新が誤作動したときにどう隔離するかまで、独立した監査の対象にする。
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「買える人だけの解放」にしない。 高価な義肢、BMI、アバター、介護ロボットが富裕層の能力だけを増幅するなら、解放は新しい身分差になる。公的支援、相互運用性、地域や障害の有無によらない利用可能性を、研究費の出口条件に含めるべきである。
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研究の途中から、当事者が決める。 介助を受ける人、高齢者、障害のある人、ケアする人、現場の労働者、子どもを含む市民が、完成後の「受け手」ではなく、設計と評価の参加者になる必要がある。倫理審査は、一度の同意書ではなく、技術と社会が変わるたびに更新される対話でなければならない。
これらは進歩を遅らせるための柵ではない。技術が人の信頼を得て、長く使われるための基盤である。
解放は、選べるときにだけ解放になる
ムーンショットが描く未来には、希望がある。遠隔のアバターを通して、これまで届かなかった場所へ誰かが届くかもしれない。AIロボットが危険な作業を引き受け、人間がケアや創造に時間を使えるようになるかもしれない。脳と機械の接続が、奪われた言葉や運動を取り戻すかもしれない。
それでも、身体の制約を超えることが、人間の価値を超えることになってはならない。疲れること、手を借りること、誰かと速度を合わせることは、欠陥ではない。人は効率だけで世界と関係しているのではないからだ。
平井卓也氏が制度の入口を政治の側から開き、小林喜光氏らが未来を考える場をつくり、多くの研究者がその未来を技術へ下ろしていく。その流れを私たちは、希望として見ることができる。同時に、希望を公共のものにするには、技術を持つ側だけで未来を決めさせないことが必要である。
「身体、脳、空間、時間からの解放」は、強い言葉だ。その言葉が本当に人を解放するのは、誰もが技術を選べて、拒めて、問い返せて、技術を使わないままでも尊厳を失わずにいられるときだけだろう。
AIとロボットが人のそばに来る未来に必要なのは、人間をより処理しやすくする技術ではない。人間が、自分の生を自分のものとして感じ続けられるための技術と制度である。
いずれにせよ、近いうちに私たちの目の前に訪れる世界だとすると、これはもう目が離せない話となってくるだろう。